ちょっと長すぎる旅ランブログ

百聞は一走に如かず。きっと貴方が好きな大会が見つかります。

【思い出】第18回長野マラソン(2016/4/16) 真価を問われる春レース! 遠くとも一度は詣れ善光寺!

大人気で激しいクリック合戦が繰り広げられるこの大会ですが、2016年当時は電話での受付も若干名枠があり粘ってみたところ、最後の最後につながってエントリーできた思い出があります。これがご縁といふもの、いざ参らんと大いに発奮しました。

www.naganomarathon.gr.jp

オリンピックの理念を継承するというコンセプトは伊達ではなく、トップ選手も出場され、市民ランナーも全体的にシリアス寄りの格調高い大会でした。応援の熱気も期待以上で、吹奏楽や太鼓も力強かったです。それまでに出た大会の中では最もアスリートのための大会という空気が強く、“こういう世界もあるのか、自分のようなへぼランナーにはちょっと厳しいな”と弱気になったことも覚えています。

レースは、最初から風が強く、途中雨も降り、水溜まりにも入り、終盤快晴で暑い、と全部詰まった展開でした。公式ページにも「長野地方気象台暴風警報を出すほどの強風のため、アーチなしでのスタートとなりました。レース中も強風が吹きつけたり、大粒の雨が降ったりと、不安定な天候にランナーは苦戦。完走率は過去最低(当時)を記録(84.49%)」とあります。制限時間が5時間というのも勿論ありますが、フルでこの完走率は低いですね。

タイムはグロス3時間37分3秒、愛媛マラソン2016以来4回続けていたサブ3.5も途切れるどころか遠く及ばないという心になかなかの傷を負う結果となりました。大会参加数を増やし始めた頃で回復が追いついていなかったこともありますが、惨敗そのものです。

このままでは終われないので生きているうちに良い記憶で塗り替えたいという思いもあります。ただ、2017年は津山加茂郷でウルトラソウルしていましたし、2018年以降はきまっし加賀の呼びかけに応えて加賀温泉郷を走っているため、その後参加できていません。2023年はこれらの大会とはずれてくれたのですが、奥熊野いだ天100kmとぶつかってしまい、やはり出られずでした。

savarun.hatenablog.com

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写真もあまり残っていないのですが、個人的には長野はどうしてももう一度訪れたい場所でしたので、観光も含めてあの日を与えていただいたことは本当によかったです。大会を開催して下さった長野の皆様に感謝です。

前日(受付と遠くの宿)

長野駅ではいきなりの歓迎の催しがあり、気持ちも盛り上がります。前日受付会場のビッグハットまで歩き、おやきを食べたりしました。

この頃から既にシリアスな空気を薄々感じてはいました。

会場付近の宿は取れなかったので、遠くて高いのですが仕方なく随分離れた場所にある宿を選択しました(斡旋のあった所です)。ホテルの送迎バスは17時発とありましたが、駅前をうろうろしているうちに早々と出発してしまったので仕方なく宿まで迷いつつ坂道を歩きました。最終的に着いたのでOKです。

うん、なんもないね。

夕食時に相席になった方が2時間40分台のランナーさんで興味津々です、40代で始めて3年くらいでサブ3というところからしてすごいのですが、食事、練習量、仕事と時間帯等々盛り上がり、スピード練習が必要など、諸々アドバイスもいただきました。今も元気に走られていることでしょう。

食事はかなり豪華でした。

お部屋は修学旅行感溢れる作りで、何だか懐かしかったです。廊下のBGMは切ればよいのにと思いましたが(早く寝たいので)。

夜中寝ずに騒いで先生に怒られるやつな。

当日

レース前(強い風に不安を覚える)

仕方ないので少しでも元を取ろうと朝飯を食べまくり、朝風呂も決めました。当時は、マラソン当日は目覚めるために風呂やシャワーがよかろうと考えていましたが、2022年頃からあまりこだわらなくなってきました。

強い風の中電車待ちです。山がきれいです。

北長野?駅からはスムーズに誘導していただき、ドキドキしながら会場入りです。当時は腕の筋肉がつき過ぎていたのと振りが大き過ぎたことから終盤よく腕が痺れていたので、アームスリーブを着用していました。シューズはミズノのアミュレットだったはずですが、もしかするとエアロだったかもしれません。

スタートブロック整列後、大会直前に発生した熊本地震で被害に遭われた方々に黙祷しました。少しでも力になれればとチャリティバンドを着けて走ります。

それぞれが、できることを。

スタート前に高橋尚子さんが「今日は風対策が大事」ということを仰っていたことは覚えています。でも高橋さんの性格的に「風が敵」とは言わず、「向かい風の時は我慢して、順風になれば友達」くらいのことを仰りそうな気はします。

春先のレースは気象条件の振れ幅が大きいです。

レース

序盤~前半(ランナーに引かれて善光寺

まずは吹き荒れる風に向かって善光寺を目指します。無理はするまいと思ってみても所詮は浅ましい心根の持ち主ですから、牛に引かれなくても目の前の速そうなランナーさんに引かれて、分不相応の入りをしてしまったのだろうと思います。後半の崩れ具合から察するに。

とりあえず坂を上り、ここで善光寺の中に入って仏心が目覚めてめでたしめでたしとなれば(それはそれで)よかったのですが、長野マラソンは始まったばかりです(いうまでもない)。善光寺から下っていく時は、“積み重なった時間的にも累計訪問者数的にも日本で屈指の歴史を誇る究極の観光地を走っていいのか”という畏怖の念すら抱きながら走っていました。

10km過ぎで前日受付会場のビッグハットの前を通ったことは覚えていますが、後はでかい道路を贅沢に走ったくらいのことしか記憶にないのが惜しいところです。

中盤(布ならぬ遅れを取り戻したい一心で、でも善光寺からは離れる)

ここがエムウェーブかと感心しつつぐるりと回って折り返し、行き交うランナーさんとすれ違っていったはずです。多分この頃には既に後半落ちるだろうなという身体の声が聞こえていたのだろうと思います。しかし当時サブ3.5を続けていて調子づいていた自分は、“悪くても3時間30分は切れるだろう”と耳を貸しません。ここからでも牛に引かれて善光寺に行き、心根を改めるべきでした(ここから帰ったら関門アウトになるわ)。

確か中間点だったかが五輪大橋の先の料金所で、計測マットを踏みあのピーピー音を聞きながら通る時に、“考えて見るとすごいシチュエーションだよな。”と思ったことは何故か記憶にはっきり残っています。どういうわけか、今でも他の大会でふと思い出すシーンです。しかし橋は未だに苦手ですね。

その先のことはコース図を見ても全然思い出せません。こんなに思い出せないことがあるものでしょうか。あちこち走っていて記憶が混線しているせいにしておきます。

後半~終盤(善光寺まで走った欲張りばあさんはすごい)

高架下の水たまりに突入してがっかりした上で、30kmだったかの二つ続く橋?では既に疲れていてもうどうしようもない感じでした。あまり正しくない練習と食事、無駄の多いフォーム、蔑ろにしてきた回復など、マラソンは日々の積み重ねがきっちり結果に響くのが何とも奥深いです。真価が問われメッキがはがれていきます。

その先の川沿いで高橋尚子さんの応援があったものの、折り返しても風向きがあまり好転せず、まだ終わらないのかと苦しみながら動かない身体を何とか運ぶばかりでした。3時間30分も大きく超えて心も折れ、最後は芝のある会場で計測マットの上をチップが物理的に通過しただけで終了。鼻っ柱を折られてしまい、なす術なくしょんぼりです。

当時の記録を見ると、“いくら何でも後半がぐだぐだ過ぎました。やはり右ふくらはぎは痛くなったのですが、それでも三月の二本(※失神しかけた鳥取と、肥満に耐えた四万十川)よりは痛みが軽かったのでもっと頑張るべきでした。風の影響が大きかったのはありますが。あと、不安からか食事の量も落とせず、体重も順調に増加の一途を辿っていました。別に心肺はきつくないのに上げられないという2015年までみたいなことを今更……。”といったことを書き記していました。

ふがいない走りに半ばヤケになって、隣にいた外国人ランナーさんに英語で話しかけたところ、“いやホント風が強かった。向かい風の時間は、折り返せば順風になると言い聞かせて走ったけど折り返してみると何故かまた逆風のように感じた”というようなことを仰っていたので、皆同じように感じるものなのだなと妙に納得したことも覚えています。この大会は海外からの参加者も多かったはずです。

それはそうと、牛に引かれて善光寺詣りを果たした欲張りばあさん十里離れた里から走ったということは約40km、ほぼフルマラソンの距離を完走しているのですね。仏心が目覚めたというよりはランナーとしての素質が花開いたのではないでしょうか。牛もペーサーのように一定の速度を守ってくれることはなく、おそらくペースの上げ下げもありそのゆさぶりへの対応も堪えたことでしょう。厚底シューズもトレーニング理論もない時代にこの健脚ぶり、令和の世なら弓削田さんとマスターズの世界記録を巡ってしのぎを削っているのではないでしょうか。

それでも、このメダルは素敵でした。

アフター

当日(過去の足取りと記憶を辿る時間)

フィニッシュ会場も立派で、出店も沢山会ったので、やけ食いというかいつもの食い意地を発揮してお腹と心を満たしていきます。

この人ほんと食べてばっかだな。

歯が立たなかったダンジョンからすごすごと退散する感じです。

しかし諦めずに去り際にもアイスを食べています。

長野に来るのは四年ぶりだったのですが、当時と同じ安宿にしました。街を歩いていると、四年前に長野に来た日に団藤重光先生の訃報を知り駅前で驚いたことを思い出し、あの日歩いた道や入った店も記憶がつながっていきました。

ひとりじゃないから 汚れながら生きてる

コインランドリーに寄りつつお散歩です。

みそソフトのうまさは特筆に値します。

今日の応援を思いながら街を行きます。

とってもレトロ感漂う空間です。

信州そばに地酒を付けました。

温泉後はコーヒー牛乳で締めました。

翌日(心を入れ替えて善光寺へ)

朝は頑張ってエムウェーブまで行き、昨日走らせていただいたのだと記憶を喚起します。いい天気できれいです。なお、この頃はまだフルマラソン翌日のダメージは相当なものがありましたのでよぼよぼです。

前日は楽しむ余裕がありませんでした。

宿をチェックアウトしてから、一路善光寺詣りへと向かいます。そこまでの上りでもなく、距離も知れているので歩きましたが、年齢的・体力的に厳しければ公共交通機関を利用して山門の傍まで行くのもよい選択肢だと思います。いかなる手を用いてでも、一度は詣でておきたいところです。

両サイドを固める土産物屋に心奪われて辿り着くまで幾星霜。

少しは自分の穢れも清められた気がしました。

善子さんと光子さんは森永乳業寄贈です。風神雷神的な。

山門から外の撮影はOKでした。

多少無理を押してでも裏まで回らないといられない性格です。

記念撮影台とか、自分には縁が無いので少し憧れますね。

次に来られる日がいつになるのか分からないからという錦の御旗の下に、最後まで糖質を摂りまくることにします。信州そばは外せませんから、鴨せいろそばをいただきました。

肉が厚くて香ばしかったです。リンゴジュースも流石のうまさ。

りんごのおやき万歳。どうしても甘いものを選んでしまいます。

そばクレープ。チーズケーキとブルーベリージャムを選択。

もっと色々回りたかったですし食べたかった(身体壊すで)のですが、残念ながら早い時間に帰路に就きます。長野は仙台程一部がムキムキになっておらず、昔ながらの風景が結構現役で頑張っている印象でした。地方に行く度に、これでうまくやっているなら無理に東京化しなくてもいいんじゃないかと思うところです。

いい目をしておる。

最後までありがとうございました。

最後に

今回改めて振り返ってみることで、写真も残っておらず思い出せない場面も多い一方で、やけにしっかりと記憶にこびりついており折に触れて思い出すことのある光景も多いという、なかなかに珍しい結びつき方をしている大会だと分かりました。11年前に初めて訪れ、7年前に再訪できたことで、自分の中で変わったものが確かめられたのも大きかったです。

当時は走力が無くいっぱいいっぱいで惜しいことをしましたが、あの緊張感のある空気の中、美しい春の長野の景色を楽しみながら快走できれば最高ですね。その日を迎えられるよう、走り続けていきたいという気持ちになりました。一人の人間として成長し、もう一度善光寺詣りを果たすということは、今も昔も無数の人が目指すところなのですから。

大会を開催して下さった皆様、ここまで読んで下さった皆様に心よりのお礼を申し上げます。ありがとうございます。